「ダイヤモンドの王」アーネスト・オッペンハイマー
若き日のオッペンハイマー
アーネストの父、エドゥアルト・オッペンハイマーはたばこ商人で、兄弟たちも商業の道で活躍しました。この環境で育った彼は、商売の現場を早くから目の当たりにしていました。16歳でロンドンに渡った彼は、兄弟が勤めるダイヤモンド会社で働き始め、現場での仕分け作業を通じて技能を磨きました。その努力は認められ、社内で高く評価されます。この時期に築いたロンドンでの人脈は、後の飛躍に大きく寄与しました。
アングロ・アメリカンと金鉱ビジネス
1912年、オッペンハイマーは会社の指示で南アフリカのキンバリーへ移り、15年にわたりダイヤモンド仕分けに従事しながら、同地の市長も務めました。1917年にはアメリカ企業と協力して金鉱脈の開発に着手。
第一次世界大戦後にはデビアス社の一員となり、独自の探鉱権を「アングロ・アメリカン」という企業に移すことで、金鉱採掘の独占を成功させました。
ダイヤモンドラッシュと市場支配
1920年代、アフリカ各地で次々とダイヤモンド鉱脈が発見され、「ダイヤモンドラッシュ」と呼ばれる供給過多の時代が到来。供給が需要を大幅に上回る中、オッペンハイマーは南アフリカの主要生産者たちに共同出資を呼びかけ、「ダイヤモンド・コーポレーション」を設立。これにより、価格暴落を防ぎ、損失を抑える仕組みを構築しました。
1926年、デビアス社の重役に就任し、1929年には会長の座にまで登り詰めました。
オッペンハイマーの成功要因
人脈と信頼
1902年、南アフリカに渡ったオッペンハイマーは、当時のダイヤ市場を支配していたアムステルダムの取引業者からの強い推薦を受けていました。さらに、ロンドン時代に築いた人脈には、後のアメリカ大統領ハーバート・フーバーも含まれていました。これらのつながりは、彼の能力と信頼性を物語っています。
手腕と戦略
オッペンハイマーは、ダイヤモンド・コーポレーションや「ダイヤモンド・プロデュース・アソシエイション(DPA)」を設立し、ダイヤモンドの生産と供給を一元管理しました。こうして市場の独占を確立し、デビアス社が価格調整を通じて市場価値を守る仕組みを築きました。また、戦争を利用した利益確保など、暗い一面も見られました。
まとめ
アーネスト・オッペンハイマーは、「ダイヤモンド・キング」の異名を持つ人物です。彼が成し遂げたことは、ダイヤモンド事業だけでなく、南アフリカでの鉱業全体における重要な役割を担ったことにあります。その異名は、彼の非凡な経営手腕への賛辞であると同時に、その狡猾さに対する畏敬の念も含んでいるのかもしれません。